
分離後も同じブランツフィールド・リンクスを使用していたが、周りの住宅開発のためコースの存在が難しくなり、二クラブともにここを去って有名な海岸のコース、マッスルバラ・リンクスへ移ることとなった。それは1870年代のことであった。当事マッスルバラ・リンクスには、この二つのクラブの他、オナラブル・カンパニーとロイヤル・マッスルバラも共存しており、ここでは3年に1回全英オープンが開催されていた。しかし、1980年代のゴルフブームの後はプレー人口が急速に増加し、パブリックであることもあって、エディンバラの名門4クラブがプレーを続けることは困難となった。そこで、1871年にはオナラブル・カンパニーが新コースのミュアーフィールドへ、ロイヤル・バージェスが1894年にこれも新コースのバーントンへと移っていった。
ブランツフィールド・リンクス・ゴルフィング・ソサエティーもその4年後の1899年、常に行動を共にするロイヤル・バージェスの新コースの隣に自分たち専用の新コースを建設して移動した。設計はマッスルバラのプロで全英オープンを4度制していたウィリー・パークに依頼。コースは海岸のリンクスとは趣を異にする樹木に覆われた典型的なパークランドコースである。その後、1971年にフレッド・ホトゥリーによって必要な個所に手が加えられ、近代化されて生まれ変わったが、なお19世紀に造られたクラシックなデザインは随所にその姿を残している。























